ここは南インド、灼熱の大地でありながら人々の運命を静かに刻む聖域だ。私はずっと噂だけで聞いてきたアガスティアの葉を追ってチェンナイに降り立った。三千年前、聖者アガスティアがシヴァ神の加護のもと未来をヤシの葉に残したという伝承は、旅慣れた私でさえ半信半疑だった。それでもナディ占星術の鑑定士たちは、親指の指紋こそが葉を呼び寄せる鍵だと言い切る。到着初日、高熱で動けなかった私は自分の無謀さを呪った。しかし翌朝、体調が戻った瞬間に胸の奥で何かがはっきりと囁いた。「今行かなければ運命は動かない」。そうして私はパームリーフリーディーディング専門の案内人ラジャンと合流し、喧騒を抜けてヴァイディーシュワラン・コイル寺院へ向かう幹線道路を南下した。車窓には牛とバイクと色鮮やかな看板が絶え間なく行き交い、香辛料と排気ガスが混ざった空気が喉を刺す。だが私の意識は常に前方、葉が眠る倉庫へと釘付けになっていた。運命の予言が本物なら、そこには私の名前、両親の名、結婚の時期、子どもの数、訪問の年齢まで記されているはずだ。途中の茶屋で供されたバナナリーフのビリヤニは香り高く、イスラム街とヒンドゥー街が税率や宗教で線引きされた歴史を教えてくれる。偽物で大金を取る業者もいる。それでも私が進むのは、ナディ占星術が説く「過去現在未来は一本」という思想が、合理主義の私を揺さぶるからだ。南インドの夕陽は真紅に染まり、ココナツの影が伸びる。その光景を背に私は再びアガスティアの葉と呟いた。旅は始まったばかりだが、指紋の渦は確かに未来の扉を叩いている。パームリーフリーディングの神秘はまだ解けない。運命の予言が私を待つ。

車はチェンナイを離れて五時間、私はガイドのラジャンと共にヴァイディーシュワラン・コイルの茶色い門をくぐった。寺院の奥には、天井まで積み上げられたパームリーフリーディングの束が脈打つように並ぶ。まず受付で右手親指を朱色のインクに押し当て、渦状の指紋を布に転写する。係員はその紙片を持って倉庫へ消え、百枚以上の葉をかき分けながら一致する記号を探すという。待合室には世界各地の旅行者が順番を待ち、不安と期待を混ぜた沈黙が漂う。壁際の男性は「三度目の挑戦でやっと見つかった」と囁き、隣の女性は「料金が高騰している」とスマホで苦情を書き込む。それでも列は途切れない。約四十分後、係員が十数束を携えて戻り、私の前で床へ並べた。「質問にイエスかノーで答えてください」。私は深呼吸し、名前の頭文字はMか、両親は健在か、出生地は大阪かと矢継ぎ早に尋ねられる。答えが否なら即座に次の葉へ移る。十回目の問いの後、係員の目が細く光った。「これがあなたのアガスティアの葉です」。葉には古代タミル語で刻まれた連続した線と点が走り、素人には模様にしか見えない。だが読師は流れるように朗唱を始め、「あなたの結婚は三十六歳、配偶者の名前はSで始まり、父の名はH、母の名はK」と訳す。背筋が凍る精度だが、質問で漏らした情報はゼロだ。更に葉は「あなたは四十二歳で南米に移住し、海外教育ビジネスを拡大する」と続く。私は客観的根拠を探そうとする理性と、胸を撃つ高揚感の狭間で揺れた。読師は「葉を持つ者は使命を果たす義務がある」と言い、最後に処方として九日間のマントラ詠唱と孤児院への寄付を指示した。ナディ占星術の核心は運命の告知だけでなく、行動を通じたカルマ解消にある。払った費用は旅全体の一割に過ぎないのに、得た情報は人生設計図そのものだ。鑑定室を出ると夕立が梵鐘を濡らし、寺院の石段から立ち上る蒸気が白い靄を作った。その中で私は紙袋に包まれた葉の写しを握りしめ、予言と現実が溶け合う不思議な余韻に浸った。私は新たな一歩を決意した。運命への敬意を胸に。今。

葉に刻まれていたのは、単なる未来の出来事ではなかった。読師が読み上げたのは、まるで私の人生の「解説書」のようなものだった。子どもの人数、配偶者との相性、移住先の国名、ビジネスの発展時期、さらには寿命までもが明記されていた。それだけではない。前世の情報として、私はかつて南インドで小さな村を治めていた人物だったと伝えられた。輪廻転生の概念が濃く残るインドでは、前世の因縁が現世の課題として現れるとされており、ナディ占星術ではこの前世の情報が特に重要視される。葉の中では、私が過去に犯した小さな過ちにより現世で特定の病気や困難に遭遇し、それを回避するための「償い」=マントラ詠唱や寄付といった行為が推奨された。驚くべきは、これらのアドバイスが具体的かつ実行可能な形で記されていたことだ。たとえば「月曜の朝、白い服を着て川に花を流しながら祈りなさい」「9日間、沈黙を守ることで次の転機が開く」など、まるで精神的な処方箋のように提示された。このとき私は、アガスティアの葉は予言ではなく“処方”なのだと気づいた。未来を教えるものではなく、より良い未来を選び取るための道筋を示す書だったのだ。この考え方は、NLP(神経言語プログラミング)で言う“再選択”の概念に近い。言葉と行動が自分の信念や現実を変えるという心理的原則に通じており、アガスティアの葉が伝える未来もまた、受け取る者の解釈と行動によって変化し得るのだと実感した。読師は繰り返し「読むだけでは意味がない。行動せよ」と強調した。これは単なる信仰ではなく、因果のメカニズムに基づいた知恵でもある。実際に葉に記された儀式を実行した人々の中には、奇跡のような変化を体験したという声も多い。SNSや動画サイトにもその報告は後を絶たない。私自身、この葉を通じて自分の中に眠る問いと向き合うことになった。将来への不安、選択への迷い、それらが整理されていく感覚は、まさに内なるカウンセリングのようだった。アガスティアの葉には、未来を語る以上に、自己理解を促す力がある。そしてその力は、読み手がどれだけ真摯に受け取るかによって変わるのだ。私は静かに葉を畳み、深く礼をした。まだ旅は終わっていない。だが確かに、何かが始まっていた。

アガスティアの葉を読み終えた後、私はひとつの疑問に立ち返った。それは「運命は書かれているのか、それとも自ら書き換えていけるのか」という問いだ。葉に記された出来事の数々があまりにも的確だったがゆえに、すべてが定められたレールのようにも思えた。しかし、ナディ占星術の本質は決して宿命論ではない。むしろそれは「選び直す力」を与える体系だと、私は感じた。アガスティアの葉は、過去の行為(カルマ)に基づいて導かれる未来の可能性を記している。だがそこに添えられたマントラや儀式、行動の指示は、今この瞬間の選択によって新しい流れを生む可能性を示していた。これは心理学的に言えば、未来の自己イメージ(セルフスキーマ)を明確にすることで、無意識の行動が変わり、現実が変容していくという原理と酷似している。つまり、葉に書かれているのは「未来そのもの」ではなく、「選ばなければ訪れる未来」なのだ。読んで安心して終わる人と、行動に移す人とで結果が変わるのは当然である。それは健康診断で病気の予兆を知りながら生活を変えない人が病気になるように、葉の教えも行動しなければ意味を持たない。現地の読師が「見るだけなら時間の無駄です」と言ったのも頷ける。私は自問した。人生の設計図を手にしたとき、人はどう生きるべきかと。その答えは、叶えるべき未来を自ら選び取る覚悟にあるのだろう。アガスティアの葉は不思議な力を持っているが、それ以上に「自分の手で運命を受け入れる」という強さを試しているように思えた。SNSで多くの人が「自分も行きたい」とコメントを寄せていたが、行くことだけが目的ではない。そこに書かれた言葉をどう受け取り、どう生きるかが本質なのだ。アガスティアの葉は、ただの予言書ではない。それは自己と対話し、自己を超えていくための「鏡」である。インドの土の匂いとスパイスの風を思い出しながら、私は最後にこう締めくくりたい。運命は決まっているかもしれない。しかし、それを変える力も、またあなたの中に眠っている。アガスティアの葉は、その目を覚ますために存在しているのかもしれない。
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